メンタルヘルス領域での架空の症例を連載します。 ある程度まで集まったら独立したページにまとめます。 まずは、企業が集まる都会で起りうるケースです。

エピソード1 「月曜の朝、仕事に行くと思うと憂うつになる」

症例

香織(仮称)、30歳女性。10年前に岩手県から出てきて仙台市内の企業に就職した。 事務職として働き、最近では「ようやく一人前になった」と感じていた。

XX年9月、人事異動でA男が新しい上司として着任した。 大阪から配属されたA男は最初は低姿勢だったが、日が経つにつれて徐々に態度が変ってきた。 2ヶ月後も経つと、その神経質で気分屋の性分が露わになった。

A男は、香織がコピーした書類を見て「斜めになってるやろ、このバカ」と激昂した。 その後も些細なことで香織を責め立て、「うちの会社にこんなアホは要らん」などと同僚全員の前で名指しで香織を非難した。 萎縮した香織はミスを連発するようになり、そのたびに激しく叱責されるという悪循環に飲みこまれていった。

香織の心は、いつのまにかピアノ線のように張りつめていた。 自宅のソファーで休んでいるときでも、ふと気付くとA男の激昂した顔が浮んでくる。 そのたびに動悸が始まり、息苦しくなる。 A男がどこかで自分を見張っている感じがするのだ。 元気な頃は休日にはよくショッピングを楽しんでいたが、今は何をしてもおもしろくない。 休日でも体が鉛のように重くて一日中横になっている。 それでも疲れがとれた気がしない。 夜はなかなか寝付けず、食事も喉を通らない。 病状は日曜の午後から次第に悪化し、月曜の朝に頂点に達した。

一人暮らしで身近な相談相手もいないし、友だちにはこんな自分を見せたくない。 実家の母に電話したが、「仕事なんだからもう少し頑張りなさい」と真面目に取りあってくれなかった。

その母が、年末近くになって実家から様子を見にきた。 母は、痩せほそった香織を見て、とても驚いた。 母に連れられて、香織は受診した。

考察

香織の診断は、 職場ストレスによる適応障害、抑うつ状態、うつ病などが考えられます。 ただ学術的な診断名は、香織にとって重要ではありません。

どんな人間にとっても苦手な相手や緊張する場面はあるものです。 そうした状況に長く置かれると人間の心はどんどん萎縮します。 典型的な事例は、「アルプスの少女ハイジ」でしょう。 大都会フランクフルトでの豪華な生活も、大自然のなかで育った天真爛漫なハイジにとっては、牢獄に等しいものでした。

アルプスの少女ハイジ

こうした状況を放置しておくと病状は悪化するばかりです。 自然な回復は期待できず、それどころか最悪の場合には自殺の危険すらあります。 追いつめられた人間にとって、「死」は最後にして最大の逃げ場だからです。

このケースでは、原因は上司の対応にあることは明らかです。 事態を打開するには、できるだけ早くこのストレス因子から遠ざけることが必要です。 ところが多くの職場には自浄する仕組みがありません。 そこで外部からの早急な介入が不可欠になります。

対応

もし香織が受診した場合、私は「休職を要する」という内容の診断書を発行して自宅療養をさせ、速やかに香織をストレス因子から遠ざけます。 香織のように原因が明らかな場合、その原因がなくなると症状が改善してくることが期待できます。 それでも少なくとも1ヶ月程度は十分な休養が必要でしょう。

症状が十分に改善すれば、時期を見て復職のスケジュールを考えなくてはいけません。 その際に最も重要なのが、原因となったストレス因子を復職後の環境からできるかぎり除去しておくことです。 上司が別の職場に異動することが最善でしょうが、なかなかそうもいきません。 場合によっては会社の人事担当と面談を組み、香織を別の事業所に異動させるなどの代替策を会社側に提案することになります。 復職後も少なくとも半年ほどは注意深く経過を負う必要があります。