エピソード2 「電車に乗ると息ができないほど苦しくなる」

症例

美咲、25歳女性。宮城県の郊外に住む会社員。 大好きだった祖母が半年前に死去し、しばらく気持ちが落ち込んでいた。 それでも持ち前の明るい性格で徐々に元気を取りもどしていった。

初夏のある日のこと、美咲はいつものように電車で仙台まで通勤していた。 朝の通勤電車は、多くのサラリーマンでごったかえしていた。 ムンムンした熱気が車内に充満して、美咲はわずかに息苦しさを感じた。 何気なく窓の外をながめると、遠くの国道上に交通事故の現場が見えた。 路面には赤い血が流れており、重大な事故であったことがうかがわれた。 突然、心臓が激しく高鳴るのを感じた。

その1ヶ月後にも同様の症状が出現した。 やはり満員電車のなかだった。 このときは「心臓が破裂するのはないか」と思うほどの恐怖に襲われた。 美咲は我慢できず、思わず途中の岩切駅で下車した。 駅のホームにうずくまっていると30分ほどで症状は改善したものの、会社には遅刻してしまった。 心配した上司に、病院への受診を勧められた。

翌日、美咲は近所の内科クリニックを受診し、心電図や採血などの検査を受けた。 検査では何の異常もなく、診察した医師からは精神科受診を勧められた。 美咲は内心それを快くは思わなかった。

それからというもの、通勤前にはいつも「電車に乗ったらまた発作が起きるのではないか」という不安に襲われるようになった。 何の異状もない日もあった。 しかし、日が経つにつれて確実に発作の頻度は増えていった。 しまいには電車に乗ると、毎回のように発作が出現するようになった。 その症状も、呼吸困難、動悸にくわえて、発汗、めまいなど多彩になった。

秋になると、美咲はとうとう全く通勤できなくなった。

解説

パニック障害を題材としたケースです。 医学における「パニック」という用語は、「この前、仕事が増えてパニックになったよ」という意味とはやや異なります。 医学での「パニック」とは、この美咲のケースのように、強い不安をベースにして呼吸や心臓などの身体的な症状が出現するような不安発作を意味します。

一般にパニック発作は、特定の状況に関係なく起きると考えられています。 幾度か発作が繰りかえされることで、「また発作が起きるかも知れない」という不安(予期不安)に発展します。 このとき初めの発作が起きた状況に不安が紐づけられてしまうことが多々あります(状況依存性)。 臨床経験上では、この症例のように、満員電車のような閉鎖的な環境で誘発されることが多いように感じます。

もともと不安や恐怖といった感情は、誰にでもそなわっている自然な感情です。 おそらく安全を確保するために生物が長い年月をかけて獲得した防御システムの一種でしょう。 ところが、その防衛システムが過剰に発動されると本来の目的から逸脱することになります。

不安の防衛システムがどのように暴走してパニック障害へと発展するかは、よくわかっていません。 うつ病と同じように脳内のセロトニン受容体が関与しているという説が今のところ有力です。 また発展途上国よりも先進国のほうが罹患者が多いため、都市化ともなうストレス過多が一因となっていることは間違いないようです。

パニック発作自体は生命に危険を及ぼすことはなく、30分ほどで自然になくなります。 ただ死を真近に感じるほど切迫した恐怖心を味わうので、当の本人はとても苦痛に感じます。 しかもこのケースのように、通勤できなくなるなど社会活動にも影響を及ぼすレベルにまで悪化することもあります。 このレベルに達すると、メンタルクリニックへの受診が必要でしょう。

対応

病状を見るかぎり、美咲の病名はパニック障害と考えて差し支えないでしょう。 ただ、パニック発作と類似した症状を呈する疾患は、以下のようにいくつかあります。 そこでまず最初に、これらの身体的な疾患ではないことを確認しておく作業は大切です。

パニック障害として間違いないことが確認されれば、次にその治療に移ります。 パニック障害の治療には、大きくわけて2つあります。 いずれか一方でも効果がありますが、両方の治療を併用するとさらに効果的であることが各種の臨床研究でわかっています。

  1. 薬物療法
  2. 認知行動療法

薬物療法では、抗うつ薬と抗不安薬が用いられます。 それぞれ特徴に違いがあるので、使いわける必要があります。

医薬品名 種類 急性症状への効果 長期の効果
パキシル SSRI抗うつ薬  
リフレックス 三環系抗うつ薬  
ソラナックス 抗不安薬  

認知行動療法とは、認知療法と行動療法を組み合わせたものです。 認知療法では、治療者との面接によって症状についての誤解(「認知の歪み」)を患者さん本人に自覚してもらいます。 端的に言えば、上記のようなパニック発作の性質を理解してもらうということです。

行動療法では、患者さん自身に実際にパニック発作を来たしそうな行動をとってもらいます。 美咲のケースでは、電車に乗ってもらうということです。 ただ、現状では再びひどい症状に襲われるだけです。 そこで、まずは軽微な刺激から始めて、徐々にその刺激に慣れてもらうという手順を踏みます。 美咲の場合には、最初は、「電車の旅番組を見る」「駅まで行って帰ってくる」などから開始することになるでしょう。 もし発作が起きそうになれば、頓服薬を内服したり、深呼吸をするなどの対処を試みます。 そうして徐々にパニック症状を抑えるすべを学んでいくのです。